石北本線・上川~白滝の鉄道旅と、石北峠の歴史などについて、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!
今回も、石北本線での「道東の旅」へ
前回から、道東の旅について解説してします。
道東とは、明確な定義があるわけではないのですが、一般的に北海道東部のことをいいます。
つまり、旭川を出発して、
- 北見
- 網走
- 釧路
- 根室
といった地域を目指す旅、ということです。
上川~白滝駅間はとても長い!1駅なのに約40分
難関の「石北峠」を越える

石北本線・上川駅~白滝駅間の車窓より(北海道)
上川駅(北海道上川郡上川町)を出ると、次の
- 白滝駅(北海道紋別郡遠軽町白滝)
までのいわゆる「石北峠」と呼ばれる区間は、約40分ほどは途中に駅がなく、とても長い駅間距離になります。
それも非常に険しい、本当に文字通り何もない山岳地帯を通っていくことになります。
この石北峠における区間は、民家ですらほとんど無いため、少々心細くなる区間でもあります。
石狩国・北見国をまたぐ、石北峠
そしてこの「石北峠」に該当する区間は、まさに
- 石狩国
- 北見国
の国境を越える区間となります。
石狩国とは、現在の札幌市・旭川市・小樽市などを中心とするエリアです。
北見国とは、現在の北見市や網走市などを中心とした、オホーツク海沿いの地域です。
いずれも、明治時代に蝦夷地が北海道に改められたときに、それまでの日本の風習・制度にしたがって付けられた国名です。
現代は「都道府県」ですが、昔は「国」という単位でエリア分けしていたわけですね。
そして石北本線とは、「石狩国」「北見国」を結ぶ路線であることから、その名前がつけられています。
石北峠:これだけ駅間距離が長い理由
途中にはいくつかの「信号所」も

石北本線・上川駅~白滝駅間の険しい峠道をのぼってゆく(北海道)
では、この石北峠の区間において、なぜこれだけ駅間距離が長いのか。
それは、今や廃止となった「駅跡」や「信号所」などがたくさん存在するからです。
つまり元々は今よりも駅があったのですが、人口減少などが原因で駅が廃止されていったために、駅間距離が長くなっているのですね。
険しい山岳地帯となる、石北峠
そしてこの地域は、北海道のまさに険しく奥深い山岳地帯となります。
それは標高1,050mにもおよぶ、大雪山系の山々を越えていくためです。
なので住民がほとんどおらず、それに加えて著しく過疎化が進んでしまったことで、元々存在した駅も利用者がほとんどいなくなって廃止されてしまったのでした。
数々の廃止された駅が信号所となっている、石北峠
ただし「駅」としては廃止となっていますが、「信号場」として残っているケースもあります。
信号場とは、列車の行き違いを行う場所のことです。
- 片方の列車に対して信号で止めておき、
- もう片方(反対側)の列車と行き違いが完了したら進むことができる、
といった具合に列車同士の衝突を回避させるための仕組みです。
石北本線は単線(1本の線路のみ)なので、このような列車同士が行き違うための設備が必要なわけです。
多くの駅が廃止となり、「信号場」へ格下げされた石北本線
駅は元々複線だったわけなので、旅客扱い(お客様を乗せたりお下ろしたり)は止めたとしても、その複線の構造を生かそうということで、信号場となったわけですね。
たとえこの地域だけは人が少なくても、札幌・旭川~北見・網走の長距離区間を結ぶ特急列車や貨物列車などはそれなりの数が走っていたりします。
「信号場」の役割
そのため、
- 速達性(目的地へ速く着くこと)が求められる特急列車を優先して通させるためにも、
- また、万が一や緊急のときに列車を退避させるためにも、
やはり列車の行き違いをさせるための信号所はあった方がいいよね、ということでしょう。
これだけ駅間距離が長いのに、もし途中でどちらかの列車を退避させるスペースが無かったら、列車同士が衝突するリスクが高まるからですね。
石北本線の信号所の中でも特に際立つ、中越信号所
そして、石北本線の信号所の中でも特に際立つのが、峠をかなり登ったところにある中越信号所です。
元々は中越駅だったのですが、2001年に廃止となり、駅跡は「信号場」として活用されることとなりました。
網走監獄の囚人によって造られた、石北本線

石北本線・上川駅~白滝駅間の車窓より(北海道)
そして忘れてはならないのが、この線路は明治時代の北海道開拓の時代に、主に網走監獄の囚人によって作られた線路だということです。
明治時代、北海道の「道路」「鉄道」の整備は急務だった
明治時代まではほとんど手付かずの原野が広がる北海道を、外国からの脅威から守れる強い土地にするということが求められていました。
特に日本が恐れていたのは、ロシアの南下政策でした。
ロシアはとても寒い土地なので(-20度以下は当たり前)、港が凍ってしまい、船が出せないのです。
こうなると、ロシアが戦争に巻き込まれたら困ります。船が出せなくて一方的に攻撃されるリスクがありました。
そのため、ロシアは凍らない港(不凍港)を獲得するため、どんどん南へ進出するという南下政策を取っていたのです。
そうした中で、日本にしてみれば「いずれロシアは、南下政策の一環で北海道に攻めてくるのでは?」と疑心暗鬼になり始めます。つまり、万が一北海道がロシアに攻められ占領されたら、北海道を拠点にしてさらに本州へ攻めてくるのでは・・・と考えるようになり、ロシアを脅威に感じるわけです。
多くの資源が眠っており、「資源の宝庫」のようにみなされていた北海道
また、当時まだ発展していなかった北海道を開拓して発展させてゆき、さらに
- 大勢の人や軍人・兵士
- 石炭、魚介類などの貴重な資源
を運ぶためにも、北海道の鉄道建設は国にとって急務でした。
しかし、広大な北海道に鉄道建設するためには、とにかく大勢の人が必要です。
ただでさえ冬は極寒の北海道で、険しい未開の山(クマやヤブカが出没するのうな土地)で働きたいような日本人なんて、普通に考えたらいなかったでしょう。
まともに募集したところで、鉄道建設に携わってくれる人なんて集まりそうにないですよね。
しかし鉄道を建設しないと、上記の「ロシアの南下政策の脅威」も待ち受けています。
網走監獄の囚人たちが、次々に線路・道路建設へ連れてこられた
そうした中、明治時代の新政府のやり方を批判した人たちが、国家に対する反逆罪として逮捕され、北海道の網走監獄へと次々と連れてこられたのでした。
そしてその囚人たちを、鉄道建設の作業要員として無理やり働かせたのです。
囚人ならばタダで働かせても給料を払わなくていいので、もはや完全に人権を無視した中で働かされたのです。
過酷な建設工事 次々に倒れていく囚人たち
囚人たちはそれぞれ逃げられないように鎖で繋がれ、まともな食事も与えられず、まったく手付かずの険しい山々を切り開いていったのでした。
そうするとクマに襲われたり、ヤブカに噛まれたりして、栄養失調で倒れたり、病気が蔓延したりで次々に囚人たちは倒れてゆき、死亡した時は遺体はそのまま山中に放置されたりもしました。
このような人権無視の奴隷のような形で囚人たちを働かせ、彼らの多大なる犠牲のもとに石北本線は建設されてゆき、開業となったのでした。
それによって、多くの囚人たちが犠牲になったため、今も石北本線の沿線には慰霊碑が建てられています。
今も北海道に残る「負の歴史」 そして今や苦境にあえぐ北海道
いかに当時の日本がロシアからの南下政策を恐れていたとはいえ、ここまで非人道的な手法を使って鉄道や道路などを建設していったという負の歴史が北海道にはあるということを、現代の我々は忘れてはならないということです。
つまり、石北本線や北海道のインフラの基礎は、先人たちの犠牲のもとに造られたのだということを、現代に生きる我々は忘れてはならないのですね。
また、こうした石北本線やその他北海道の路線を存続させるためにも、みんなで北海道を旅行して、北海道を元気にしてゆきたいものですね!
次回は、白滝駅へ
次は、白滝駅に止まります。
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